消せない罪
氷高颯矢
夢の中でしか出会えない幻の恋人。
それを求めても虚しいと感じる事が出来る程、彼はまだ大人じゃない。
桜が咲き、新しい生活が始まる。
新任の教師として冬月琴音はこの五月台高校に赴任する事になった。
大学を卒業してすぐにこんな風に教師として雇ってもらえたのはとてもラッキーだ。
それが、縁故という形でも。
(高校生だから、そんなに生徒と接する機会なんて無いけど、楽しみだなぁ…)
琴音は音楽を担当する。音楽は選択科目なので多くの生徒と関わる事はあまり無い。
(この学校、ブラスバンド部もコーラス部もないんだ…)
部活動の話をきいて、琴音は残念だった。部活での関わりも無いとなると、本当に生徒との接する機会は少ない。熱血教師とかそういうのに憧れていた訳ではないが、生徒と共に自分も教師として成長していきたいという淡い期待のようなものがあったのだ。
「――新任の先生を紹介します。音楽を担当してもらう冬月琴音先生です。冬月先生、どうぞ…」
教頭に促されて壇上に立つ。
「冬月琴音です。新入生の皆さんとは同じ日にこの学校に入った仲間です。教師と生徒という立場ではありますが、仲良くできればいいな、と思っています。気軽に声をかけてください。よろしくお願いします」
拍手が起きる。それと同時に、ひそひそ声。
「琴音ちゃんだって!美人じゃん!」
「俺も仲良くして〜」
「何よ、男子に媚びちゃって…」
男子生徒の多くは琴音に対して好印象だった。女子生徒は、一部からは反感を買ってしまったようだ。
「…何か、どっかで見た事あるような気がするんだよなぁ…」
「七地?」
「…何でもない」
4月も終わりに近付き、桜もすっかり散ってしまった。これからは若葉の季節だ。琴音は放課後をだいたい音楽準備室で過ごす。時々、音楽室でピアノを弾いたりもしているが。
「あの…」
琴音は少し驚いた。制服が真新しい事から1年生だと判る。
「どうしたの?何か質問でも…?」
すると、彼は頬を染めた。
「俺のこと、判らない?」
「えっ?…どこかで、会ったかしら?」
少年は悲しそうな表情をした。
「覚えてなくて、当然だよ。俺の思い込みかもしれないし…」
「あの…」
「運命だって、思った。先生が、俺の運命の相手だって思ったんだ」
琴音はびっくりした。これはまるで告白だ。
「夢で、ずっと見てた。その相手が、先生だって…急に思ったんだ。何故か解らないけど、懐かしいって思った。今まで会った誰よりも、先生のこと、特別だって思ったんだ…」
「…それは、嬉しい…けど、どうして私なの?」
「先生、それは理屈じゃないよ。心が震えたら、それは…運命になるんじゃないかな?」
少年は真剣だ。真っ直ぐなその瞳に、琴音は揺れた。こんな風に強く想える彼を、眩しいと感じた。
「じゃあ、確かめてみて?私が運命の相手なのか。きっと、貴方になら判ると思う。私達は今、初めて会ったようなもの。それだけで答を出すのは早すぎるわ…」
否定も肯定もしない。琴音はそんな風に応えた。彼の真剣な想いを受けとめられる程、琴音は少女ではなかった。大人の対応をするべきだと悟っていた。琴音は教師という立場だった。一時の感情に支配されるような甘い理性の持ち主ではなかった。
「貴方には、もっと…」
スルリと指輪が抜けた。銀色の、シンプルなデザインのリング。少年はそれを拾って、琴音の手を取った。指に、触れる。その温もりは、想像していたものとは違っていた…
「指輪…落ちましたよ」
「ありがとう…」
薬指に嵌めてやる。
「こうして、指輪を贈った事があるんです。夢の中の彼女は今の先生みたいに不安そうにして…それでも、俺には彼女を繋ぐ証に思えた。ちっぽけだけど、絆だと信じたかった…。悲しいけど、先生は俺の探していた人じゃなかった…。今、判った」
「そう。ごめんね、がっかりした?」
「俺が勝手に間違ったんです。でも、気付かなければもう少し…幸せな気持ちでいられたかなぁ…」
少年は微笑う。
切ない気持ち。琴音はそれを共有した。もし、指輪が抜けなければ…指先に触れなければ…彼はこんな喪失感を感じずに済んだかもしれない。
「私も、幸せな気持ちでいて欲しかった…」
ポツリと呟く。
純粋で綺麗な心、それに触れてはいけなかったの。
それに触れられるのは彼の求める少女だけ。
触れてはいけなかった。
それは、私の犯した最初の罪ね…
これは琴音と翼が初めて出会った時の話です。
かなり唐突な話でごめんなさい。
琴音は翼に初対面で惹かれずにいられなかったのです。
翼が少年らしさを持っていて、
それは自分が失った『少女』を思い出したから。
琴音は大人にならなければならないと、
少女である自分をある意味捨ててしまったので、
少年そのものの翼が眩しくて仕方がないの。